引用元:http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1405592847/1: 油まみれちゃんねる 2014/07/17(木) 19:27:27.57 ID:???0.net
「白蓮事件」というのは、伯爵家の娘で大正天皇の従妹にあたる歌人・柳原白蓮(本名・伊藤燁子)
の不倫駆け落ち事件のこと。
白蓮は25歳年上の炭坑王の夫・伊藤伝右衛門と結婚したが、それは政略結婚で結婚生活は不幸なものだった。
そんな時、年下の社会運動家の宮崎龍介と出会い駆け落ちを決意。この駆け落ち劇は新聞にも大きく取り上げられ、世間を騒がす一大スキャンダルへと発展した。
『花子とアン』でも今週は、葉山蓮子(白蓮)のもとに宮本龍一(宮崎龍介)が来訪し再会。ついに駆け落ちを決意する展開になっている。
そんな中、「文藝春秋」8月号に、駆け落ち相手の宮崎龍介の告白手記が掲載された。今回掲載されたのは宮崎が亡くなる3年半前の昭和42年6月号に掲載された手記を再録したもの。
「文藝春秋」は、「いま再び脚光を浴びる『白蓮事件』の真相を知るために、全文を再録する」と書いているが、その内容は確かに事件の真相を知る上でも、そしてドラマを観る上でも興味深いものだ。
手記は、龍介が創刊した社会運動の機関誌「解放」に原稿を持ち込んできた白蓮との出会い、そして次第に白蓮に惹かれていく龍介の心情、さらには一緒になった後の生活などが克明に描かれている。
しかし、この手記で驚かされるのは、なんといっても今週から来週にかけて放映されている駆け落ち劇の舞台裏だろう。
龍介の手記によると、燁子は親戚のお祝いに行くという名目で上京。そのまま行方をくらまし、龍介と駆け落ちをはたす。
ところが、このとき、朝日新聞が「『筑紫の女王』伊藤燁子 傳右衛門氏に絶緣狀を送り 東京驛から突然姿を晦ます 愛人宮崎法學士と新生活?」 という見出しでスクープ(1921年10月22日大阪朝刊)。さらに、同紙には白連が夫に送りつけた“絶縁状”が掲載されるのだ。
の不倫駆け落ち事件のこと。
白蓮は25歳年上の炭坑王の夫・伊藤伝右衛門と結婚したが、それは政略結婚で結婚生活は不幸なものだった。
そんな時、年下の社会運動家の宮崎龍介と出会い駆け落ちを決意。この駆け落ち劇は新聞にも大きく取り上げられ、世間を騒がす一大スキャンダルへと発展した。
『花子とアン』でも今週は、葉山蓮子(白蓮)のもとに宮本龍一(宮崎龍介)が来訪し再会。ついに駆け落ちを決意する展開になっている。
そんな中、「文藝春秋」8月号に、駆け落ち相手の宮崎龍介の告白手記が掲載された。今回掲載されたのは宮崎が亡くなる3年半前の昭和42年6月号に掲載された手記を再録したもの。
「文藝春秋」は、「いま再び脚光を浴びる『白蓮事件』の真相を知るために、全文を再録する」と書いているが、その内容は確かに事件の真相を知る上でも、そしてドラマを観る上でも興味深いものだ。
手記は、龍介が創刊した社会運動の機関誌「解放」に原稿を持ち込んできた白蓮との出会い、そして次第に白蓮に惹かれていく龍介の心情、さらには一緒になった後の生活などが克明に描かれている。
しかし、この手記で驚かされるのは、なんといっても今週から来週にかけて放映されている駆け落ち劇の舞台裏だろう。
龍介の手記によると、燁子は親戚のお祝いに行くという名目で上京。そのまま行方をくらまし、龍介と駆け落ちをはたす。
ところが、このとき、朝日新聞が「『筑紫の女王』伊藤燁子 傳右衛門氏に絶緣狀を送り 東京驛から突然姿を晦ます 愛人宮崎法學士と新生活?」 という見出しでスクープ(1921年10月22日大阪朝刊)。さらに、同紙には白連が夫に送りつけた“絶縁状”が掲載されるのだ。
そして、この朝日報道をきっかけに、夫・伝右衛門からの反論が別の新聞に掲載されるなど、スクープ合戦に発展。世間を揺るがす大騒動に発展していくのである。
いったいなぜこのような騒ぎになったのか。実はこの駆け落ち劇そのものが、朝日新聞記者の“仕込み”だったらしいのだ。龍介はこう回想している。
「私と燁子との問題は家族の者にも一切話さず、友人の赤松君と朝日新聞にいた早坂二郎君にだけ打ちあけて、いろいろ相談しました。
彼らは私が燁子と結婚することには大賛成でした。そして同じやるなら、一つ世間に衝撃を与えるようなやり方をした方がいいだろうということに、三人の意見が一致しました。
それには多くの新聞社に共同発表するよりは、一社の特ダネの形で世間に発表する方が効果がある、という早坂君の意見で発表は朝日新聞一社にしぼることにきめました」
つまり、世間に自由と人権を訴えるために、龍介の友人である赤松克麿と、朝日新聞の早坂記者が一緒になってこの過激な計画を考えたというわけだ。
さらに早坂記者は自社のスクープにすべく龍介をたくみに誘導している。ヤラセとまではいえないが、記事をつくるために“行動”を教唆したと言われてもしようがないだろう。
そして、10月22日、朝日新聞朝刊の社会面は、全ページが白蓮と龍介の「白蓮事件」で埋められ、予想通りの大センセーショナルがまきおこされる。
だが、ここからが大変だった。当時は姦通罪もあり、女性が夫や嫁ぎ先に反旗を翻し、年下の男に走るなどというのは絶対に許されないことだった。人は世間から、激しい非難にさらされていく。それは身の危険さえ伴うものだった。
「私のところには、毎日のように『悪党』『国賊』といった罵詈雑言の手紙が山ほど舞いこんでおり、暴力団まで家の前をうろうろする状態でした。そしてある日、とうとう右翼の壮士三人、私の家へ乗り込んできました」
「母は、相手は短刀くらいもっているかもしれないからと、私に着物の下にふくろ真綿を着させました。(中略)
弟は木刀をもって応接間のふすま一つへだてた奥の六畳間に身をひそめることになりました」
「私は壮士の三人を応接間にまねき、私はなるべく彼らから遠い位置に坐り、いつでもふすまをあけられるようにしておりました。
三人はかわるがわる私にあらんかぎりの罵倒を投げつけましたが、私は返事もせず黙ったまま彼らの手ばかりみつめていました。
相手の手が動いたら、すぐ弟に知らせようと緊張していました。しかし、ついに彼らは私に向かって手だしはせず、一時間ほどいて最後に、『またくるから、貴様、よく考えておけッ』と捨てゼリフを残して帰っていきました」
仕込みネタで世論を煽った結果、右翼に乗り込まれてしまう。何か、ネトウヨから攻撃を受けて炎上を繰り返している今の朝日の姿を彷彿とさせる話ではないか。
いったいなぜこのような騒ぎになったのか。実はこの駆け落ち劇そのものが、朝日新聞記者の“仕込み”だったらしいのだ。龍介はこう回想している。
「私と燁子との問題は家族の者にも一切話さず、友人の赤松君と朝日新聞にいた早坂二郎君にだけ打ちあけて、いろいろ相談しました。
彼らは私が燁子と結婚することには大賛成でした。そして同じやるなら、一つ世間に衝撃を与えるようなやり方をした方がいいだろうということに、三人の意見が一致しました。
それには多くの新聞社に共同発表するよりは、一社の特ダネの形で世間に発表する方が効果がある、という早坂君の意見で発表は朝日新聞一社にしぼることにきめました」
つまり、世間に自由と人権を訴えるために、龍介の友人である赤松克麿と、朝日新聞の早坂記者が一緒になってこの過激な計画を考えたというわけだ。
さらに早坂記者は自社のスクープにすべく龍介をたくみに誘導している。ヤラセとまではいえないが、記事をつくるために“行動”を教唆したと言われてもしようがないだろう。
そして、10月22日、朝日新聞朝刊の社会面は、全ページが白蓮と龍介の「白蓮事件」で埋められ、予想通りの大センセーショナルがまきおこされる。
だが、ここからが大変だった。当時は姦通罪もあり、女性が夫や嫁ぎ先に反旗を翻し、年下の男に走るなどというのは絶対に許されないことだった。人は世間から、激しい非難にさらされていく。それは身の危険さえ伴うものだった。
「私のところには、毎日のように『悪党』『国賊』といった罵詈雑言の手紙が山ほど舞いこんでおり、暴力団まで家の前をうろうろする状態でした。そしてある日、とうとう右翼の壮士三人、私の家へ乗り込んできました」
「母は、相手は短刀くらいもっているかもしれないからと、私に着物の下にふくろ真綿を着させました。(中略)
弟は木刀をもって応接間のふすま一つへだてた奥の六畳間に身をひそめることになりました」
「私は壮士の三人を応接間にまねき、私はなるべく彼らから遠い位置に坐り、いつでもふすまをあけられるようにしておりました。
三人はかわるがわる私にあらんかぎりの罵倒を投げつけましたが、私は返事もせず黙ったまま彼らの手ばかりみつめていました。
相手の手が動いたら、すぐ弟に知らせようと緊張していました。しかし、ついに彼らは私に向かって手だしはせず、一時間ほどいて最後に、『またくるから、貴様、よく考えておけッ』と捨てゼリフを残して帰っていきました」
仕込みネタで世論を煽った結果、右翼に乗り込まれてしまう。何か、ネトウヨから攻撃を受けて炎上を繰り返している今の朝日の姿を彷彿とさせる話ではないか。
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